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<<   作成日時 : 2015/03/01 16:13   >>

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 善光寺
 定額山
 無宗派 別格本山
 本 尊
 一光三尊阿弥陀如来
 いっこうさんぞんあみだにょらい
 脇侍・観音菩薩
 かんのんぼさつ
 脇侍・勢至菩薩
 せいしぼさつ
 2015_02_05




善光寺が文献に現れるのは10世紀頃で、11世紀中頃は園城寺(三井寺)の末寺であった
真言宗・醍醐寺・天台宗・浄土宗・時宗など各宗派の勢力争いの場所となる
四門四額(しもんしがく)と称して、東門を定額山善光寺(じょうがくさんぜんこうじ)、南門を南命山無量寿寺(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を北空山雲上寺(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を不捨山浄土寺(ふしゃさんじょうどじ)と別々の扁額が架かる
明治9年(1876)浄土宗の大本願と、天台宗の大勧進が寺務を分担するようになった
大勧進は25ヶ院の本坊で天台宗大本山、大本願は17ヶ院の尼寺で浄土宗鎮西派大本山、
両寺とも善光寺の創建当初から歴史を共にしてきた寺院
大勧進の住職は貫主と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている
大本願の住職は善光寺上人と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている
善光寺の住職は、大勧進貫主と大本願上人の両名が務める
善光寺はいずれの宗派にも属さない
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元禄12年(1700)焼失した本堂を再建する際、完全に乾いた木材の入手は困難であった
そのため生木に近い木材を使ったため、当時の大工がねじれを予測して、左右の柱が互いに外側に回転するようにして、向拝自体に変形が及ばないようにした
本堂は宝永4年(1707)完成、巨大な撞木造りの屋根が特徴で国宝
本堂床下の真っ暗な通路を通り、本尊が安置されている瑠璃壇の真下にある極楽浄土への錠前に触れる戒壇が巡りできる
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本尊の一光三尊阿弥陀如来は、中尊の阿弥陀如来を脇侍の観音菩薩と勢至菩薩が挟む3立像の背後を大きな1枚の舟形光背がおおっており、善光寺式阿弥陀三尊像と呼ばれる
三国時代の朝鮮半島の金銅仏が源流にあると思われ、6世紀の半ばくらいに渡来した
当時は、蘇我・物部氏による崇仏・廃仏論争があり、この仏像は仏教反対派により難波の堀江に捨てられた
推古天皇10年(602)頃、これを本田善光が出身の信濃・麻績(おみ)の里に持ち帰った(現・飯田市座光寺)
皇極天皇元年(642)現在地に移された
鎌倉時代以来絶対秘仏とされ、寺の住職ですら目にすることはできない
本尊の忠実な写しとされる前立(まえだち)三尊像(重要文化財)が満6年に一度開帳される
天文24年・弘治元年(1555)川中島の戦いに際し、武田晴信(信玄)が甲斐の板垣郷(現・甲府市善光寺)に本尊を移し、新たに甲斐善光寺を創建した
慶長3年(1598)豊臣秀吉が元の信州善光寺に戻した

三門は寛延3年(1750)完成の重要文化財、平成19年(2007)修復されて創建当初の栩(とち)葺きに改められた
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日本百観音(西国三十三箇所・坂東三十三箇所・秩父三十四箇所)の番外札所となっており、秩父三十四番・水潜寺で結願したら善光寺に参るといわれている
長野県上田市の別所温泉に善光寺と向き合うために北向きに作られたという北向観音(天台宗・常楽寺)がある
善光寺が来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらすという
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